暑中お見舞い!!

先日、暑中見舞いを親戚一同に出した

毎年年賀状は必ず出すが、暑中見舞いを出すのは始めてだから

受け取った親戚もあれ何だどうと思ったことだろう

今年の秋の天気の落ち着く頃に、母の13回忌の法事を行うつもりである

今年の春に行うつもりであったが、日取りとお寺さんの予約状況が合わず、秋まで伸ばしていた

人の心は移ろい易いもの、いや、忘れっぽいもの

8月頃には、1回ダメを押しておこうと云う意図があってのことだ

そうしたら、父の姉の子、私の従兄弟に当たるH川T彦の奥さんから電話があった

「今年の1月肺炎を起こして入院、5月に心不全で亡くなりました。」

この従兄弟とは6つ位歳が違う

昭和20年8月、私達家族は、朝鮮を引き揚げて関釜連絡船に乗り

下関に着き、そこから山陽本線で京都の母の叔父の家に向かった

列車は止まったり走ったり3日3晩掛けて京都に到着、1年半年位厄介になった

その時、私は4歳4ヶ月広島付近を通過中止まった列車から降りて、近くの葡萄畑で葡萄を摘み食いした記憶があるが

広島に原爆が落ちて大騒ぎをしていたような記憶がない

だから、まだ終戦前に日本に引き揚げたのかもしれない

何れにしても、4歳4ヶ月では何も覚えていない

ただ、京都に落ち着いて、この従兄弟の膝の上にいつも抱かれていた

外に出ても何時もこのT彦さんのそばを離れなかった

その後、浜寺という南紀よりの町に母の妹がいて、そちらに引っ越すことになるのだが

この従兄弟のT彦さんが結核であったため

その膝の上で散々過ごしたことにより、私も肺浸潤という初期の結核に罹病していた

その頃は、結核患者だから隔離するような法律もなく

静かに、美味しいものを食べて療養するくらいのことしかなかった

しかし、戦後の何もない時代だ

父は月に一度戻って来て、20kgの米袋をどんと置いて又何処かへ行ってしまう

母と叔母は、その20kgの米で2家族8人が1ヶ月過ごさなくてはならない

毎日、数える位の米粒が下に沈んだ雑炊で飢えを凌いでいた記憶が蘇る

だから、皆が雑炊の中、「K治は病気だから栄養を付けなければ……」と母が私だけに白身の魚等付けてくれると

小さいながらに、皆に悪い気持ちが一杯で中々食べられなかったことを思い出す

一人の従兄弟の死が記憶の連鎖を引き出す

朝霞が住まいだ、早く行って線香を灯してやろう~~~




朝食 ご飯1膳、ニラ玉、南瓜と煮豆、納豆、海苔、モヤシと油揚げの味噌汁、煎茶、大根と茄子の糠漬け、リンゴ

昼食 ホットケーキ、キャベツとスプラウトのサラダとミニトマト、バナナ入りヨーグルト、コーヒー

夕食 ご飯1膳、塩小路漬け焼肉(豚ロースと肩肉)、舞茸とエリンギと赤ピーマン、冷奴、煎茶、キウイ、
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この記事へのコメント

萌音
2014年06月14日 08:43
こんにちは。京都のブログを読んでたらコチラに辿り着きました。写真が綺麗でオシャレなブログですね。羨ましいです。

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